豊臣秀吉が没した翌年、五大老の一人である前田利家も亡くなると、徳川家康が実権を握るようになります。
これを見て、直江兼続は、家康対策に乗り出すとともに、旧領・越後の奪還も目指します。
景勝にとっては、旧領を回復することは、領土の拡大だけに留まらず、家康を牽制する意味合いもありました。
兼続は、越後に部下を送り込んで一揆を勃発させようと企んだり、神指というところに新城を造営したり、武装強化に励んだり、という活動を行います。
こうした不穏な動きの中、上杉景勝に替わって越後の領主となった堀秀治は、徳川家康に「会津の上杉景勝に謀反の動きあり」と報告します。
家康は、こうした一連の動きについての詰問状を景勝に送り、上洛を促し、失脚させようとします。
これに対し兼続は、家康に一歩も引かない姿勢を示し、逆に家康を挑発するような、16ヵ条からなる返答書を送りつけ、家康を激怒させます。
これが世に言う「直江状」です。
兼続はこの時、家康との戦を覚悟していたのでしょう。
実際、兼続は、対家康戦に備え、一揆の煽動、他国との同盟関係等、着々と準備を進めていました。
五奉行である石田三成や増田長盛らとの間で、景勝の挙兵と同時に大坂でも挙兵するという密謀があったとも言われています。
家康に対して強硬的な態度を示した直江状の意図については、研究者の間でもいろいろ意見があるようです。
・上洛に応じられない状況では、論理的に反論するしかない。
・秀吉の遺言に背き、天下統一を狙っているわけではない。
・家康が狙った景勝失脚をかわしたい。
・家康を怒らせても、会津まで戦を仕掛けてくる可能性は低い。
・仮に進軍してきたとしても、天下を狙う家康は長期間、奥州にいることができないので、勝機は十分にある。