全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、知行地の拡大と、明との貿易のために、朝鮮に出兵します。
1592年と1598年に行われた秀吉による朝鮮出兵を「文禄の役」「慶長の役」と言います。
諸大名は、兵や兵糧を用意して、肥前国名護屋に赴き、そこから朝鮮へと出兵しました。
出兵した多くは西国大名でしたが、上杉景勝と直江兼続は、なんと5千人もの兵士を従えて名護屋へ行き、3千人の兵士とともに秀吉の名代として出兵し、約1年3ヵ月の間、朝鮮で戦を行っています。
文禄の役が16万人、慶長の役が14万人の兵士が朝鮮に渡りましたが、戦況が不利のまま、1598年、豊臣秀吉が亡くなり、五大老と五奉行によって停戦が進められました。
1597年に、小早川隆景に代わって五大老の一人となっていた上杉景勝は、1598年に、秀吉から越後から会津へ国替えするよう命じられます。
さすがの景勝もこれには難色を示したと言われますが、この命が撤回されることはなく、景勝は越後の春日山城を離れ、会津に入ることになります。
与えられた所領は、会津74万石、出羽長井郡18万石に、旧領の庄内と佐渡の28万石を合わせた120万石です。
そして秀吉は、陪臣の身である直江兼続に、大名クラスの米沢30万石という異例の高禄を与えます。
これは秀吉の兼続に対する期待がいかに大きかったかを物語っています。