1592年と1598年に行われた「文禄の役」「慶長の役」には景勝と兼続も朝鮮に出兵します。1597年には、越後から会津へ国替えするよう秀吉に命じられます。兼続は陪臣の身ながら、米沢30万石を与えられます。
徳川家康に対し、上杉景勝は全面降伏します。これで景勝は会津などを没収され、120万石から米沢30万石の大名に降格します。
上杉景勝の減封により、米沢に多くの家臣団が入ってきましたが、当時は米沢は小さな町で、城下に住めたのは上級武士だけでした。兼続は、下級武士のために土地を割り当てて、そこで牛や馬を飼育したり、柿や栗などを育てることを奨励しました。
上杉家臣団の移入によって、米沢城の拡張と生活用水の確保の必要性が生じてきます。直江兼続は、まず米沢城周辺の土木・灌漑工事を行います。そして、米沢城三の丸に上級武士の屋敷と役所が置かれ、三の丸の東側には、19もの町人町をつくりました。
大阪冬の陣・夏の陣の後、直江兼続は、徳川体制の中で上杉家存続のために苦心します。
1619年、兼続は、体調不良にも関わらず、将軍・徳川秀忠の上洛に同行したことがたたり、江戸の屋敷で60年の生涯を終えます。