家康の詰問状に対し、兼続は、家康に一歩も引かない姿勢を示し、逆に家康を挑発するような、16ヵ条からなる返答書を送りつけ、家康を激怒させます。これが世に言う「直江状」です。
兼続と三成が出会ったのは、1585年の秋に行われた、上杉景勝と豊臣秀吉間の同盟締結の事前交渉だったといわれています。この2人は強い絆で結ばれていました。
1600年、徳川家康は、豊臣秀頼の名のもと、上杉景勝討伐を決めます。直江兼続は、早々に家康軍を迎え撃つ準備を始めます。が、石田三成が挙兵したため、家康は西へ向かいます。そして関が原の戦いが始まります。
徳川家康が会津攻めをやめて、小山から西へ向かったのを受け、上杉景勝は、直江兼続に家康の追撃ではなく、最上攻めを命じます。最上攻めは、兼続にとっては不成功に終わりましたが、全軍を無事撤退させた手腕は、敵であった最上義光や、徳川家康からも高い評価を受けました。
徳川家康に対し、上杉景勝は全面降伏します。これで景勝は会津などを没収され、120万石から米沢30万石の大名に降格します。
大阪冬の陣・夏の陣の後、直江兼続は、徳川体制の中で上杉家存続のために苦心します。