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坂戸城は、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす坂戸山に立地しています。景勝が上杉謙信の養子となって春日山城に移ると、その春日山城の支城となりました。城主館跡の少し先には、上杉景勝・直江兼続生誕の地の石碑が建っています。
坂戸城主で上杉景勝の実父の長尾政景が溺死したのは、この地だったという説もあります。銭淵公園の敷地内には「直江兼続公伝世館」が建てられています。
雲洞庵(うんとうあん)は、坂戸山周辺から南へ3~4kmのところにある曹洞宗の寺院です。上杉景勝と直江兼続は、幼少期にこの雲洞庵で学問を学びました。
南魚沼市の市役所前の芝生の上に、上杉景勝と直江兼続主従のレリーフが建っています。
春日山城には、上杉景勝屋敷跡や上杉景虎屋敷跡、直江屋敷跡もあります。
春日山城は、上杉謙信の居城として有名です。後を継いだ景勝も、会津へ移るまで居城としていました。総延長1200メートルにわたる総構えを山麓に構えるという大要塞です。
御館公園は、JR直江津駅の近くにある公園です。ここが上杉景勝と上杉景虎の間で行なわれた御館の乱の舞台で、公園内に石碑が建てられています。
林泉寺(りんせんじ)は、越後国の守護代長尾氏、そして上杉氏ゆかりのお寺として知られています。林泉寺は、上杉謙信・景勝の居城・春日山城の山麓に建立されています。
与板城は、直江家の居城で、以前は本与板城と呼ばれる城を居城としていましたが、天正年間の景綱の時代に築城し、移転したとされています。景綱の子の信綱が亡くなった後、兼続が直江家を継ぎ、与板城主となります。
与板歴史民俗資料館は、長岡市与板町にあります。館内は、直江兼続の甲冑や縄文土器、与板ゆかりの人物の資料などが展示されています。
直江兼続は、1560年、越後国の坂戸城下(現・新潟県南魚沼市)で、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。兼続は、幼少の頃から、才能が非凡で、容姿も美しかったようです。兼続は上杉景勝の小姓として取り立てられ、生涯を通じて景勝に仕えることになります。
1575年、景勝は母の仙桃院とともに、上杉謙信の居城であった春日山城(現・新潟県上越市)に移りました。兼続も景勝と一緒に春日山城へと移りました。景勝と兼続は、上杉謙信という生きたお手本から直接教えを受けることになります。
1578年3月9日、上杉謙信は厠で倒れて昏睡状態に陥りました。その後、意識を取り戻すことなく亡くなってしまったので、養子の景虎と景勝の間で、後継者争いが起こることになります。
上杉謙信が没すると、後継者を巡って景虎と景勝の間で御館の乱と呼ばれる争いが起こります。これに勝利した景勝は、謙信の後継者として越後の大名となります。兼続は、この戦功以後、景勝の重臣としての地位を確立していきます。
兼続は、未亡人となってしまった直江信綱の妻のお船(せん)と再婚し、名門・直江家を相続し、与板城主となります。
上杉謙信の死を知った織田信長が、越後に向けて侵攻してきますが、これに伴い、新発田城主・新発田重家が織田軍に寝返ります。本能寺の変で信長が自害した後、景勝と兼続は新発田重家の討伐に向かいます。
1588年、上杉景勝は、聚楽第で豊臣秀吉に謁見します。1590年、豊臣秀吉は、関東の北条氏討伐に乗り出し、これに景勝と兼続も参戦します。小田原征伐後、豊臣秀吉による天下統一が成し遂げられます。
1592年と1598年に行われた「文禄の役」「慶長の役」には景勝と兼続も朝鮮に出兵します。1597年には、越後から会津へ国替えするよう秀吉に命じられます。兼続は陪臣の身ながら、米沢30万石を与えられます。
家康の詰問状に対し、兼続は、家康に一歩も引かない姿勢を示し、逆に家康を挑発するような、16ヵ条からなる返答書を送りつけ、家康を激怒させます。これが世に言う「直江状」です。
兼続と三成が出会ったのは、1585年の秋に行われた、上杉景勝と豊臣秀吉間の同盟締結の事前交渉だったといわれています。この2人は強い絆で結ばれていました。
1600年、徳川家康は、豊臣秀頼の名のもと、上杉景勝討伐を決めます。直江兼続は、早々に家康軍を迎え撃つ準備を始めます。が、石田三成が挙兵したため、家康は西へ向かいます。そして関が原の戦いが始まります。
徳川家康が会津攻めをやめて、小山から西へ向かったのを受け、上杉景勝は、直江兼続に家康の追撃ではなく、最上攻めを命じます。最上攻めは、兼続にとっては不成功に終わりましたが、全軍を無事撤退させた手腕は、敵であった最上義光や、徳川家康からも高い評価を受けました。
徳川家康に対し、上杉景勝は全面降伏します。これで景勝は会津などを没収され、120万石から米沢30万石の大名に降格します。
上杉景勝の減封により、米沢に多くの家臣団が入ってきましたが、当時は米沢は小さな町で、城下に住めたのは上級武士だけでした。兼続は、下級武士のために土地を割り当てて、そこで牛や馬を飼育したり、柿や栗などを育てることを奨励しました。
上杉家臣団の移入によって、米沢城の拡張と生活用水の確保の必要性が生じてきます。直江兼続は、まず米沢城周辺の土木・灌漑工事を行います。そして、米沢城三の丸に上級武士の屋敷と役所が置かれ、三の丸の東側には、19もの町人町をつくりました。
大阪冬の陣・夏の陣の後、直江兼続は、徳川体制の中で上杉家存続のために苦心します。
1619年、兼続は、体調不良にも関わらず、将軍・徳川秀忠の上洛に同行したことがたたり、江戸の屋敷で60年の生涯を終えます。